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その他の情報クレオパトラ7世 プトレマイオス朝では、権力を巡る骨肉の争いが常態化していた。事実、紀元前55年(クレオパトラ14歳のとき)、父(プトレマイオス12世)とクレオパトラの姉(ベレニケ4世)は王位を巡って争い、父がローマの支援を得て勝利してベレニケを処刑した。このようにエジプト国内は不安定な状況下に置かれていた。 紀元前51年、クレオパトラが18歳のときプトレマイオス12世が死亡したが、父王の遺言とプトレマイオス朝の慣例にのっとり、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と結婚し、共同で王位(ファラオ)に就いた。クレオパトラは強大なローマとの同盟が唯一エジプトの存続の道であると考えたが、弟王との共同統治は弟王の側近の介入により齟齬をきたした。 紀元前49年、ガイウス・ユリウス・カエサル派とグナエウス・ポンペイウスらの元老院派との間で内戦が勃発、父王時代からの繋がりでクレオパトラは元老院派を支援し、ポンペイウスの子小ポンペイウスはアレクサンドリアを訪れ、クレオパトラに兵員と食料の協力を要請したとき、女王は、この小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員及び食料を提供した。この際、クレオパトラは小ポンペイウスの愛人となった。 しかし紀元前48年の春、このクレオパトラの動きに不信を募らせたローマからの独立を標榜するプトレマイオス13世派は、アレクサンドリア住民が親ローマ主義のクレオパトラに対して起した反乱に乗じてクーデターを決行し、クレオパトラを東部国境のペルシオンへと追いやった。 |
戦国大名 「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね室町時代の守護大名と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を統一する権力を有する。また、有力国衆など被官・家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において知行高に応じて軍役を課す貫高制を確立している。 独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停する分国法(戦国法)を制定するものもあり、特に戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される。このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配を大名領国制という。これは守護大名の守護領国制がより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。 特に守護大名が室町幕府より守護に任じられたという権威を背景にしており、その守護職は令制国単位であるため、その権威も守護に任じられた令制国内に限られるのに対して、戦国大名の領国は令制国単位に限られず、歴史的由緒など支配の正当性のあるなしに関わらず他国への領国拡大を行い、軍事行動や外交などを独自の権限で行った。下克上により従来の守護を打倒して領国支配を確立した戦国大名もいる。 こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名を領国を主権的な国家としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する |