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その他の情報ディオニュシウス・エクシグウス ディオニュシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus、470年頃〜544年頃)は、ローマの神学者、教会法学者である。小ディオニュシウスとも。東ローマ帝国の小スキタイ地方(現ブルガリアのドブロジャ)出身。彼は小スキタイの主要都市、トミス(現コンスタンツァ)に集中しているスキタイの修道僧共同体の一員であった。 教皇ゲラシウス1世が没した頃(496年)から彼はローマで過ごし、ローマ教皇庁の教養が高い一員として、401の教会の正典をギリシア語からラテン語に翻訳してきた。それにはニカイア、コンスタンティノープル、カルケドン、サルディスの公会議による正典、教皇シリキウスによるアナスタシウス2世にあてたものなど、5世紀の教皇教令集などを含む。これらの翻訳集は西洋において大きな権威をもち、まだ教会の管理を導いてすらいた。ディオニュシウスは初等数学に関する論文も書いている。 616年、ディオニュシウスのコンプトゥスの続きを著した著者は彼を「ローマ市で最も教養の深い修道院長」と表現している。ベーダ・ヴェネラビリスは彼にアッバス(大修道院長)の尊称を与えた。ただし、それはどのような修道僧(特に年長で尊敬を受けている僧)でも与えられるもので、必ずしもディオニュシウスがかつて修道院長を務めていたことを示すものではない。 ディオニュシウスは西暦を案出したことで最もよく知られる。これはユリウス暦、グレゴリオ暦の形で千年以上用いられている。 |
戦国大名 「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね室町時代の守護大名と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を統一する権力を有する。また、有力国衆など被官・家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において知行高に応じて軍役を課す貫高制を確立している。 独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停する分国法(戦国法)を制定するものもあり、特に戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される。このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配を大名領国制という。これは守護大名の守護領国制がより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。 特に守護大名が室町幕府より守護に任じられたという権威を背景にしており、その守護職は令制国単位であるため、その権威も守護に任じられた令制国内に限られるのに対して、戦国大名の領国は令制国単位に限られず、歴史的由緒など支配の正当性のあるなしに関わらず他国への領国拡大を行い、軍事行動や外交などを独自の権限で行った。下克上により従来の守護を打倒して領国支配を確立した戦国大名もいる。 こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名を領国を主権的な国家としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する |